日本の文化を見直そうvol.24 ~神戸ビーフはもはや高嶺の花。でも何とかしてその味を楽しみたいのだが…~

神戸に住んでいると、「神戸牛は身近な食材ですか?」。そんな事を時たま聞かれる。そんなわけはなく、神戸ビーフは超A級食材で高嶺の花なのだ。コロナ禍が明け、円安傾向も伴ってインバウンド客はどっと押し寄せている。彼らの神戸滞在目的の一つは、神戸ビーフを味わうことらしい。そう言えば、来日しない女優として有名であったジュリア・ロバーツが、かつて映画「食べて、祈って、恋をして」のPRで日本を訪れた事があった。日本嫌いの彼女の来日理由は、「神戸ビーフを本場で食べてみたかったから」だそう。大物女優までその気にさせた神戸ビーフは、神戸どころか、日本が誇る名素材である。
神戸牛といわれるものの、別に神戸市内で飼育されているわけではない。兵庫県で生産された但馬牛からとれる枝肉が一定の基準を満たしたものをそう呼んで格付けしているのだ。但馬牛の歴史は古い。平安時代に編纂された「続日本紀」には登場しており、そこには「但馬牛が耕耘、輓用、食用に適す」と載っている。但馬には、1000m以上の険しい峰が続き、牛を連れての往来が困難だった。だから交配も同じ渓谷で重ねる事が多かったようだ。そのため刺しが細かく入った肉質を宿す牛が生まれたのだろう。明治期に入って食肉需要が高まると、外国種と交配させる事で大型化を進める時流が全国で生まれた。ところが、外国種と交わると、気が荒くなり、肉質も粗くなる。それを危惧してか、但馬では、純血種を守って地域のみの改良を重ねて来たのだ。奇跡的に四頭の但馬牛が残り、そこから優秀種牛として1200頭もの子を残した田尻号が生まれている。現在、神戸牛と呼ばれているのは、その田尻号の子孫である但馬牛が多い。
開港と同時に文明開花の波が一気に押し寄せて来た明治期には、食の西洋化が取り入れられた。その一環が肉食である。「神戸牛が旨い」と言ったのは、神戸の居留地に暮らす外国人。ある宣教師が母国に帰るのに、送別会が開かれ、そこで但馬牛が食される。その味が本当に良く、宣教師は横浜でその話をしたという。それが広まり一躍「神戸牛は旨い!」となったという。話の真偽はわからないが、さもありそうな話であろう。明治期には、横浜港における牛肉の需要が増大し、輸入のみではまかなえなくなった。そんな噂が広まっていたからか、横浜でもそれを求めた。在留外国人ばかりか、外国にまで神戸牛の知名度が高まったといわれている。ちなみに神戸には、「大井肉店」という牛肉を扱う銘店があるのだが、この創業も明治4年と古い。幕末に農家を営んでいた岸田伊之助(「大井肉店」の創業者)の所に、開港準備に来日していた外国商船の乗組員から「牛を売って欲しい」との依頼があったらしい。当時は、肉食牛なんて日本にはいないので農耕牛を指して頼んで来たのであろう。岸田伊之助は、やむなく外国船へ牛を納入する事にしたそう。そんなひょんなきっかけから岸田伊之助は、肉店を起こすに至ったようだ。「大井」の名は、奥さんの旧姓から。「岸田肉店」よりも「大井肉店」の方が語呂がよかったからだとか。
ところで明治期から神戸牛の品質の良さは、広く伝播されて今がある。「大井肉店」のような名門の存在もその名を高める一つの要素だったのかもしれない。名前が広まると、ニセ物も出て来る。それを防止する意味もあって神戸肉流通推進協議会では、神戸ビーフの定義を定めているのだ。雌牛で未経産牛、雄牛では去勢牛。脂肪交雑のBMS値がNO.6以上で、歩留等級がAまたはB等級。枝肉重量が雌で230kg以上〜470kg以下、雄では260kg以上〜470kg以下というのが条件らしい。まだまだ羅列しなければならない条件もあるが、ここではやめておく。つまり神戸ビーフとは安易に求められるものではなく、希少価値のあるものだという事だ。


インバウンド需要もあってますます神戸ビーフは高騰していると聞く。知り合いのレストランでコロナ前までは1万円台で食せていた神戸牛が入ったコースが、今や35000円もするらしい。もう庶民が手の出せる範囲ではなくなって来たという話だ。神戸牛のステーキが高嶺の花ならば、その関連した加工品にその味を求めなばならない。そういえば、「六甲味噌製造所」の「兵庫のごちそう味噌」には、「牛肉味噌」なるおかず味噌があった。ここには神戸牛が使われている。商品説明を見ると、黒毛和牛のトップブランド「神戸ビーフ」と兵庫県産「朝倉さんしょ」を使用し、六甲みその「芦屋そだち白味噌」と「米赤つぶ味噌」を調合したコクのある贅沢なおかず味噌と書かれている。関西には古くからおかず味噌が根づいており、調味としての味噌の活用ではなく、調味料を加えて造った味噌を惣材にして食べる文化がある。ならば、今宵の一杯は、「牛肉味噌」をつまみに飲るとしよう。少し遠いかもしれないが、神戸ビーフで晩酌には違いない。
(文/フードジャーナリスト・曽我和弘)
<著者プロフィール>
曽我和弘
廣済堂出版、あまから手帖社、TBSブリタニカと出版畑ばかりを歩み、1999年に独立して(有)クリエイターズ・ファクトリーを設立した。食に関する執筆が多く、関西の食文化をリードする存在でもある。編集の他、飲食店プロデュースやフードプランニングも行っており、今や流行している酒粕ブームは、氏が企画した酒粕プロジェクトの影響によるところが大きい。2003年にはJR三宮駅やJR大阪駅構内の駅開発事業にも参画し、関西の駅ナカブームの火付け役的存在にもなっている。現在、大阪樟蔭女子大学でも「フードメディア研究」なる授業を持っている。