日本の文化を見直そう vol.31~意外にも浅い鍋料理の歴史。水炊きとて当初は薄い味噌に漬けて食べていた~
一家団欒の鍋シーンは意外と歴史が浅い
喉元過ぎれば熱さ去れるとは、良く言ったもので、猛暑続きの長~い夏は忘却の彼方に。今や寒風が肌身に染み、暖を求めたくなっている。風が冷たくなると、鍋が恋しくなって来る。温か~い鍋物を味わうと、なんだか幸せな気分に浸ってしまいそう。一つの鍋を皆んなでつつき、一家団欒なんてシーンがついつい思い浮かんでしまう。
一つの鍋を皆んなでつつくなんて今では当たり前の食事風景だが、その昔は下品とされており、明治期になるまではあまり浸透していない。それも当然で、戦前までの食事は各自膳で食べていた。だから鍋を皆でつつくなんてあり得ない話だったわけだ。食文化の歴史を紐解くと鍋料理は意外にも浅い事がわかる。古くからあるように誤解されるのは、田舎の囲炉裏で鍋を煮るシーンを映画や書籍などで目にするからだ。現に室町期の「慕帰絵詞(ぼきえことば)」の中に囲炉裏で鍋を煮る絵が出て来る。ただ、これは煮物か、汁物を煮ているのが正しく、鍋料理の光景では決してない。鍋の語源は「な」(魚や野菜)を調理する「へ」(瓶の事)から来ている。調理器具としては、「倭名類聚抄」(平安期)に出て来るほど古いのだが、料理としては古くはない。せいぜい江戸中期に流行していたのが関の山であろう。


鍋料理を作るには鍋と熱源が必要。その熱源とて座敷内で使えるようになるには七輪の登場を待たねばならない。七輪は江戸期の元和年間(1615~24)に能登で珪藻土(けいそうど)製品のものが開発され、やがてそれが江戸に伝わって座敷内で囲炉裏やかまどの役割が果たせるものとして流行していく。享保年間(1716~36)に喜右衛門が吉原仲の町で台の物屋を始めて評判を取る。台の物とは、今でも会席料理の献立内に出て来るが、足付きの台の上に載せた料理をいう。七輪もその台にあたり、その上で焼物や小鍋といった温かい状態で食せるように仕立て、台屋と呼ばれる仕出し配達が商売として花街で成り立っていたわけだ。これによって鍋料理が誕生し、一気にそれが流行する。だが当時はあくまで小鍋仕立て(小鍋膳立の略)。つまり鍋料理とは、小鍋から発展した事がわかる。
鍋料理がいよいよ本格化するのが明治時代。きっかけは牛鍋の流行から。幕末に西洋文化が流入した事から明治期にかけて牛肉を食べるようになった。その代表料理が牛鍋で、一つの鍋を皆でつつくスタイルが生まれて来る。明治5年には明治天皇が牛肉を食した事もあって大流行。明治8年に70軒だった牛鍋屋が明治10年には550軒にも膨れ上がっている。明治期には、かつて卓袱(しっぽく)台から言葉が転じたちゃぶ台が大衆西洋料理店で広まって、より団欒で鍋をつつく光景が身近になって行った。現に明治36年には、思想家の堺利彦が「家庭の新風味」の中で、一家団欒の観点により膳をなくしてちゃぶ台の使用を呼び掛けている(それでも膳からちゃぶ台へ移行するのは関東大震災以降である)。このようにして鍋・熱源(七輪や火鉢など)・テーブル(ちゃぶ台)という条件が揃っていよいよ鍋物は大衆に広まって行く。
鍋物は大きく分けて、予めスープに味がついているすき鍋と、昆布などでだしを摂り、スープに味がないちり鍋に大別される。前者がすき焼き、寄せ鍋、ちゃんこ鍋などで、後者は水炊き鍋と呼ばれる魚ちりや、湯豆腐、しゃぶしゃぶなどだ。近茶流宗家の柳原一成氏は、もう少し細かく分類しており、柳原式鍋の分類によると、すき鍋、水炊き、煮汁鍋となるらしい。煮汁鍋とは、魚すきの沢煮系と、寄せ鍋やきりたんぽ鍋の八方汁系、飛鳥鍋の牛乳系、石狩鍋やほうとうの味噌煮汁系、三平汁のかす汁系があるという。そうなって来ると、すき鍋も少し変わり、すき焼きなどの醤油系とぼたん鍋などの味噌系に分類されるそうだ。
水炊きの歴史は、鍋料理の中でもちょっと古い。水炊きが文献に出て来るのは、寛永20年(1643)の「料理物語」の中。第9汁の部に長崎の南蛮料理・鶏の水炊きが紹介されている。ところが汁の部扱いなので私が考えるに鍋料理というより汁物の方に重きを置いていた料理かもしれない。ここでは水炊きなのですき鍋ではなく、今でいうちり鍋に属している。「吸口ににんにく、その外色々、うす味噌にてもつかまつり候」とあるから薄い味噌だれで食べていたと思われる。水炊きは、関西と長崎に起源がある。ただ背景にある歴史や調理法は異なるようだ。関西の水炊きは、湯豆腐(当時は湯やっこと呼んでいた)のように鍋つゆに味をつけず、椀に取り分けて食べる。つゆも昆布でだしを摂ったものである。一方、長崎の水炊きは「料理物語」に出ていた家庭料理に端を発すが、いつしか鶏ガラでだしを摂るようになった。何でも明治初期に長崎の人が博多の人へ伝えてそうなったのだとか。現在、博多の鶏の水炊きが有名であるが、これは「水たき元祖 水月」の林田平三郎が香港で学んで来たコンソメと中華の白湯をアレンジして明治39年に完成させたものがベースとなって伝わっており、鶏ガラでだしを摂るためにスープが白濁している。関西の水炊きとは違う料理であろう。


さて日本の食文化では、醤油より味噌の方が古い。日本の醤油は鎌倉期に湯浅で誕生している。但し、世に出て来たのは、豊臣秀吉の御世。小田原攻めの時に湯浅から秀吉に醤油を贈ったそうで、それを機に朱印状が与えられ、各地へ醤油を売る事が認められた。江戸期に入って野田や銚子でも醤油が醸造されるようになって江戸の町で用いられ始める。その点、日本の味噌は平安期にすでにあって歴史は醤油の比ではないのだ。鎌倉期には、中国から日本へ来た僧侶によって擂り鉢が使用され、粒味噌を擂り潰す事で味噌汁が生まれている。室町期に大豆生産が増えて農民でも自家製の味噌を作るようになったために平安期の贅沢品ではなく、保存食として庶民にも浸透して行ったようだ。農林水産省のうちの郷土料理を検索すると、明治期に流行し、鍋料理の文化を広めた牛鍋は、醤油や味噌を使ったたれで牛肉を煮込んだものと説明されており、横浜発祥の鍋料理と書かれている。その発祥説は色々あるが、一つは幕末の文久6年(1862)に横浜にあった「伊勢熊」が提供したのが始まりではないかといわれている。牛鍋はすき焼きの元祖ともされているが似て非なるもの。そもそもすき焼きは、牛肉を焼いてから醤油や野菜から出た水分で煮て作る。片や牛鍋は初めからたれを入れて具材を煮る。現在、関東風の作り方である割下を使ったやり方が関西でも広まったためにややこしい事になっており、すき焼きと牛鍋を混同する向きも出ているのだ。すき焼きは、調理に醤油を使えども味噌は用いない。そういう意味では両者の差を表すのに味噌で作った牛鍋を見せた方がわかりやすいかもしれない。だからあえて牛鍋を味噌で作って再現するケースも見受けられる。
ところで味噌を使った鍋料理は、その牛鍋を始め、味噌ちゃんこ鍋・味噌モツ鍋・ゴマ味噌鍋・ボタン鍋・石狩鍋と枚挙にいとまがないくらい。当然ながら日本の食文化をリードして来た調味料なので何にでも合うのだ。味噌を用いると、その性質上身体がポカポカして来る。ならば寒~い時季は味噌鍋といきたい。嗜好によって白味噌を使うか、赤味噌を使うかは決めたらいいが、六甲味噌製造所の「完熟みそ」は鍋によく合う。ならば、それを使っての味噌鍋も選択肢の一つだろう。
(文/フードジャーナリスト・曽我和弘)

<著者プロフィール>
曽我和弘
廣済堂出版、あまから手帖社、TBSブリタニカと出版畑ばかりを歩み、1999年に独立して(有)クリエイターズ・ファクトリーを設立した。食に関する執筆が多く、関西の食文化をリードする存在でもある。編集の他、飲食店プロデュースやフードプランニングも行っており、今や流行している酒粕ブームは、氏が企画した酒粕プロジェクトの影響によるところが大きい。2003年にはJR三宮駅やJR大阪駅構内の駅開発事業にも参画し、関西の駅ナカブームの火付け役的存在にもなっている。現在、大阪樟蔭女子大学でも「フードメディア研究」なる授業を持っている。